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第一説の終わりです

ふとした瞬間に、彼は目が覚めた。咄嗟に起きようとして肺が苦しくなり、咳き込む。
「大丈夫ですか…? 川に溺れたかのように全身汗でびしょびしょですけど…」
声は女子大生のものだった。
――― いろんな意味で溺れたよ、三途の川でな…
などと心の中で毒づいてから、苦しい肺を整えて作り笑顔で彼女のことを見る。
「おかげ様で何とか大丈夫です」
彼がそう言うと女子大生は笑顔でお辞儀をして彼の寝室を出て行った。罪の意識など一切無いようである。あの様子からするとなんで白目をむいて意識を失ったのかなども全く理解してないようだった。
呆れた顔で自分の姿を見ると本当に汗でべとべとだった。自分が着ている寝巻はところどころ汗でシミが出来ている。
そこで彼はある疑問点に気付く。
――― 何故俺は寝巻を着ているんだ!?
彼は食材を買いに外に出たのだ。こんな服で買い物に行った覚えは一切無かった。だからと言って帰ってきてからこの服装に着替える余裕は無かった。かといって自分に夢遊病で着替えてしまうなどということがあったことは無い。
最悪のパターンを想像して柊斗は頭を抱える。
布団から飛び起きて、ふら付く足でリビングに行くと女子大生が皿洗いをしていた。おそらく昼間、少女に振舞っていたご飯の皿だろう。
少女はまたすやすやとソファで寝息を立てている。
柊斗は少し申し訳なさそうに女子大生の顔を見ながら頭を掻いて言う。
「あ、あの… もしかして、着替えをしていただいたりなんかしちゃったりしますか…?」
途端に女子大生は目を丸くした後、洗っていた皿を顔の前に出してもじもじする。視線を柊斗からそらしながら顔を真っ赤にして頷いた。
「あの… その… 私服の方は…寝辛いかな…と思って…」
彼は思わず苦笑いを浮かべる。
だが、好意でやってくれたことなので一応礼は述べた。
「あ、ありがとうございます」
しかし、その言葉を聞いてぎこちなさに気付いたのか、すかさず彼女は流しから身を乗り出して言う。
「だ、大丈夫ですよ!? 何も見てませんから!」
「は?」
女子大生はしまったと声が聞こえそうなほどにわかりやすい動作をした。挙動不審に辺りをキョロキョロ見渡してから洗っていた皿を流しに置いて顔を両手で覆う。
柊斗は嫌な予感がした。
恥ずかしがる大学生をほったらかしにして、急いで彼は風呂場へ行き、自分の下着を確認する。残念なことに彼の嫌な予感は当たってしまっていた。自分が今着ている下着は、朝彼が着ていたものではない。風呂場の洗濯かごの中には今日朝着ていたはずの彼の下着が見事に入っていた。
彼は今までに感じたことのない絶望感がどっと心の中にのしかかったのを感じた。
絶望に打ちひしがれた表情のまま風呂場にある時計にふと視線を向けると時間は午後4時だった。
彼は急に鞭打たれたように服を脱いで体を拭いて私服に着替えてを機械のように手早く行い、走ってリビングに向かい、ノートパソコンを勢い良く開いてスリープモードを解除する。そしてそのまま椅子に座って凄まじい速さで指を動かした。
まだまだ終わりそうもない資料の数々が今か今かとパソコンの中で待っているのを忘れて、気絶までしてしまっていたのだ。買い出しに行ってから3時間は経っている。今から急いでやっても今日中に終わるかどうかの量であった。彼が焦るのも無理は無い。
そんな彼の様子を大学生は見てひとり呟く。
「お子さんがいらっしゃるのに休日も仕事だなんて、大変ですね」
――― 一体だれの所為だ…
もう一度心の中でそう毒づき、仕事を続けようとして、思わず女子大生を見る。
「お、お子さん!?」
思わず引きつった声をあげた彼に対して不思議そうな表情で女子大生は言う。
「違うんですか?」
これには思わず彼もしまったという顔をして言い訳を急いで考える。
「え、えぇ、違います。 あの子は、その、私の兄の子なんです」
彼の戸籍に兄の欄は無い。寧ろ彼が長男である。
「それで、その、あれなんです… 兄が早くに死にまして… どうしてか兄の妻までいなくなってしまって…」
そこまで嘘を取り繕って話しながらふと彼女の顔を見ると今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「ど、どう…しました…?」
「あんなに…明るい子なのに…そんなことがあったなんて… そうですよね… そんな辛いことがあったなら記憶が無くて当然ですよね…」
思わず柊斗は生唾を飲み込んだ。
どうやらどこまでだかは把握できないが、少女と多少の会話を行っていたようで、もしあのまま無視していたら怪しまれ、警察沙汰になっていたのかもしれない、ということに彼はようやく気付いた。額にじんわりと汗が滲むのが自分でもわかった。柊斗は少し冷静になろうと、置いてあったコーヒーを口に含む。
「正直、私、ちょっと貴方のことを疑ってました… 虐待とか、誘拐なんじゃないか、って…」
彼の口から茶色い液が弧を描いて宙を舞う。
「だ、大丈夫ですか!? ごめんなさい! そんなことするような人がこんな身近にいるはず無いのに… 勝手にそんな探りを入れたりして…」
女子大生は慌てて彼の元により、机に散らばったコーヒーの亡骸を拭きとった。
「いや、いいんですよ。 俺は昔から目つきが悪いんで」
などと言って冷静を表面上で繕うが、心臓が怯えるのを鎮まらせることはもはや彼には出来なかった。隣りの女性に疑われるようなら、警察などもっての外で、すなわち警察に少女を預けるという手段が完璧に失われたということだった。いざとなったら国家権力に全てを投げ出す、という手段を考えていたのだが、そのいざとなったら、が潰されてしまってはもう成す術がない。いっそのこと誘拐犯だと自供して捕まるのも手ではあったが、ここまでやってきた人生をこんなことで棒に振りたくなどなかった。
すると、この状況を打破するには、やはり夢に出てきた夢葦という少女を探し、青年に全てを話させる他に手段がなくなったことになり、ただでさえ忙しいのにそんなことまでしている余裕があるかどうか、など誰に聞いても同じ答えしか返ってこないと嫌でもわかってしまう程にほどに単純なことである。
人は追いつめられると突拍子もないことを平気で思いついてしまう。
頭を抱え込もうとした彼の眼にふと懸命にコーヒーの残骸と格闘する女性の姿が映り、彼の頭の中で常人ではありえない発想が生成された。
柊斗は急に女性の必死にコーヒーを拭いている手を取った。
驚きを隠せない様子で女性は柊斗の顔をまじまじと見る。どれほどまでに必死に拭けばそうなるのかはわからないが、彼女の頬は若干紅潮していて、チラチラとソファの上の少女の方を気にしていた。
「あ、あの…!」
「はっ、はい!? ななななんでしょう!?」
「わ、あ、つ、つつ、付き合って下さい!」
言ってから彼は重大な言葉足らずに気付き、汗が滲んだ額から滴が滴り落ちるのを感じた。
本当は「私の兄の妻を探すのを付き合って下さい!」と言うはずだった。いや、そう言わなければならなかった。間違っても主語だけは抜かしてはいけなかった。しかし、強調したい部分を興奮してそこだけ言ってしまい、もう後には戻れない状態に自ら飛び込んでいた。
――― 終わった…
女子大生の手を取っていた彼の左手からは急に力が抜け、そのまま床に倒れこみそうになる。人生で一番逃してはいけないタイミングで、一番やってはいけない方法でそのタイミングを全て泡にした。絶望感で彼の心は満たされ、目眩がし、意識が現世から離れようとする。
しかし、椅子から転げ落ちようとした体は、椅子から落ちる一歩手前で力強い何かに引きとめられた。現世から離れかけていた彼の意識は急いで彼の中に戻り、彼は再び動かせるようになった首を恐る恐るもたげた。
女性の表情を視認すると、女性は頬を赤く染めながら視線を彼以外の物に忙しく動かしていた。
そして一言。
「わ、わかり…ました…」
「…ぺぇ?」
自分でも驚くほどに情けない効果音が口から漏れた。呆然として口が開いていることにも気付かずに彼は言葉を発する。
「ひまひゃんと?」
今の彼にとっての精一杯の「今何と?」である。そのなんとも聞き取り辛い精一杯の日本語を彼女は聞き取ったようで、より一層顔を赤くしながら声を張り上げる。
「ににに、二回も言わせないで下さい!」
そう言い残すと女性は恥ずかしそうに両手で顔を覆い、流しに脱兎のごとくかけて行く。
――― これは思った以上に深刻なことになった…
彼には彼女と付き合う気など毛頭無く、心の中で彼女のことに対して悪態まで吐いていたほどであったため、嫌われなかっただけましではあったが、この先彼女とうまくやっていく自信など一欠けらもなかった。
ましてや相手のことをよく知る期間すら殆どなかった彼に、彼女をそういった感情として見る気持ちなど産まれるはずもなく、普通なら喜んでもいいシチュエーションなのだろうが、この状態を心から喜び、彼女と付き合うことが無難に出来るはずもなかった。
それから暫くの間、彼の時は止まっていた。
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この小説に名前をなにかつけたいよね

柊斗はコーヒーに入れるために買っていた牛乳を冷蔵庫から出して、それを温めて少女に出す。
人が自分の家に来ること自体久しぶりで、客に出すものが牛乳以外無かったので、仕方なく温めて少女に出したのだが、意外に少女はそれを気に入って美味しそうに飲んだ。
「で、本当に自分が誰なのかがわからないのか?」
彼が尋ねると少女は牛乳を飲みながらコクリと頷く。
「残念ながら私が誰で何時どうやって何のためにここにいるのかもわかりません…」
非常に残念そうな表情をして少女は柊斗に謝るが、彼にはどうしても記憶のないまま密室に入り込んで隣りで寝ていた、ということが信用できなかった。玄関は勿論、窓の鍵も閉まり、人が一人入れるような隙間もこの家には存在しない。この密室状態を看破して入り込むのは、記憶があってもそうそうできることではない。それを記憶なしにやってのけた、となるとそれこそ信用できなかった。
しかしそれと同時に、彼女が嘘をついているようにも見えないのが彼が困っている理由の一つでもあった。それに、嘘をつくならばもっとましな嘘をついてもいいはずである。泣きじゃくってお前が連れて来たんだろうとでも言われれば、昨夜の幻覚の様な夢が頭から離れないような状態の彼には自分を信用することも出来なかったはずである。それなのに彼女は自分が誰なのかがわからないと言っている。嘘にしては完成度が低すぎていた。
少女の顔を見ながらそんなことを考えていると、急に部屋に電子音が鳴り響いた。急いで柊斗は玄関へ行き、鍵を開け、扉を開ける。
するとそこには見覚えのある女性が立っている。彼の隣りに住んでいる大学生であった。
表情がかなり険しいところを見て、彼は大体何を言われるのかを予想できた。しかし、敢えて何を言いたいのかがさっぱりわからない、とでも言うような表情を作る。
「何でしょう」
「ちょっと…昨日から煩くないですか?」
そこまで言われても気が付かないかのような表情を作り、はい?と彼は聞き返す。
「昨日からずっとお前は誰だとか叫んでません? 何かあったんですか?」
この言葉に彼は内心動揺する。
昨日は帰ってきて、着替えもせず寝たのだ。お前は誰だ等と叫んだ覚えは彼には無かった。いや、正確には鮮明と記憶に残っていたが、それを現実としたくない彼が必死に表面上の彼を作り上げた。
「すみません… なんか昨日からいたずら電話が酷いんです… 夜中に来たものだからついカッとなってしまって…」
柊斗がありもしない嘘をつくと、女子大生は急に真剣な顔つきになった。
「そ、そうだったんですか… すみません… 事情も知らずに殴り込みみたいなことしちゃって…」
「いえ… こちらこそ申し訳ないです…」
柊斗は一礼して扉を閉めると深い溜息をつく。
もし、女子大生が言っていたことが本当ならば、昨日の夢が本当にあった出来事だということになる。それこそ信じたくないことであった。
頭を掻き、リビングに戻ると、記憶喪失の少女は椅子ですやすやと寝ていた。
改めてみると、恐ろしい程に存在が現実離れした少女である。
服装も白のワンピース一枚という、どう見ても現代の子供とは違う服装をしていて、なおかつ奇妙な髪飾りをつけている。青と赤の奇抜な配色で、異様な存在感を放っているそれは、彼も一度何処かで見たことかあるような気がしたが、思い出せないので考えるのをやめる。
そもそも、居場所が無いとなると彼の家に泊まるしかない。ほぼ毎日仕事がある彼にとってそれはとても厄介なことだった。
かといって、警察に通報するのも気が引けた。
何故かというと、ここまで少女のことに関わっておいて、今更警察預けるのは人としてどうかと思ったからだが、平気な顔をして嘘を吐いた後に、人としてどうかなどと思うこと自体が人としてあるまじき行為であることにまでは彼も気付かなかった。
寝ている少女に毛布を掛けてあげようと毛布を持って近づくと、彼は違和感に気付いた。
部屋の温度は15度。彼は石油の無駄遣いをなくすために、ヒーターの設定温度を低くしてなるべく厚着をするようにしていたため気付かなかったが、肩が丸出しの白のワンピース一枚ではどう考えても寒すぎる。しかし寒いなどとは一切言わずに、少女は暫くの間柊斗と会話していたのだ。少なくとも普通の人は寒がるだろう。
彼の脳裏に考えてはならない想像が浮かんだ。
少女は突然自分の家に現れて、自分が誰だかわからないという。そしてこの寒い中をワンピース一枚で平気に過ごしている。
少女は幽霊なのではないか。
途端に背筋に寒気を感じた彼は毛布を床に置いて、そっと自分の手で少女の体に触れる。
――― 感触はある。
感触は人肌に触れている、そう思えるほど柔らかく、柊斗が想像した物ではなかった。
それと同時に違和感にもう一つ気付いた。
――― 温かみが、ない。
少女の体は冷え切っていて、それはまるで鉄でも触っているようで、人らしさは微塵もない冷たさを持っていた。
しかしこの寒い中をワンピース一枚で過ごしていたのだから冷え切っていて当然ではあった。
柊斗は毛布をそっと少女に掛けると、コートを一枚羽織って玄関を出た。

外の風は冷たく、微弱なヒーターの熱もあるだけましだと思えるほどだった。
寒さに耐えながらポケットに手を突っ込んで黙々と歩き続ける。
残念ながら彼の家に温かい食べ物はホットミルクしかない。
夕飯も買ってなければ、炊飯器もないのでご飯も炊けない。インスタントラーメンもこの間食べ切ってしまっていて、温かい食べ物は本当に家に存在しなかった。
少女のため、という名目を持ちつつ自分のためにも食材を買ってこようと考えたため、彼は家を渋々出たのだった。
しかし仕事の残りを終わらせるための時間も惜しいため、早歩きになりながら会社に行くために通っている忌まわしい道を黙々と進んでいく。
だが、予想以上に早く彼の足は止まった。
彼は思わず目を見開く。
土曜にみた高校生が向かい側から歩いてきているのだ。
制服ではないがマフラーをして、長い髪を後ろでひとつに纏めている。青年は電信柱に背を預けて時計を気にしながらじっと道路を見つめていた。
彼は急いで視線を下に落としてばれないように歩く。
こんな偶然があることは滅多にない。誰かが意図的に仕込んだのではないかとでも思えるほどで、彼は昨日から焦りを感じていた。
自分の周りで色々なことが変わっていく。
自分が生き疲れた世界が目の前で変わっていく。
いい方に転がってくれれば幸いなのだが、どうも今の状況からすると彼にとって良い方に転がるようには見えなかった。
青年の横を通り過ぎようとした時、青年が口を開いた。
「大変そうですね」
「へ?」
柊斗は驚いて青年を見た。
青年は笑顔で柊斗を見ている。
「大変そう…?」
「えぇ」
目に笑みは無いが、口元はつりあがり恐ろしい笑みを浮かべていた。
彼は怖くなって歩き出そうとすると、もう一回声が聞こえた。
「なんか疲れてません? もしかしたら彼女がくるかもしれないですよ。 …いや、それとも、もう来たのかも」
咄嗟に柊斗は青年の方に振り返る。
「君は、何か知っているのか!?」
柊斗の額から汗が垂れる。心臓は働き過ぎて破裂しそうなくらいに音を奏でていた。
青年は口元に笑みを浮かべたまま横目で彼を見つめる。
「貴方の元に、何やら不思議な少年か少女がいるのなら、彼女は来たのかもしれないですね」
彼は目を見開いて青年を見つめる。
心当たりは大有りだった。今、その少女のために買い出しに行こうとしている。それと同時に、彼の脳裏にこびり付いている夢がはっきりと浮かび上がってくる。
“彼女が来た”。
これにも心当たりがあった。
青年は自分の知らないことを知っている。知っていてなおかつ彼に青年は何かしらの情報を与えようとしている。そしてその情報を彼は知る必要がある。彼はそう感じた。
自分の胸に渦巻く焦りは彼の脳を刺激した。
「教えてくれ! 俺に一体何が起こっているんだ!」
彼は周りを気にせずに叫んだ。その所為で通行人の視線が彼に注がれる。
柊斗ははっとして我に返り、小さい声で続ける。
「頼む… もう何が何だか自分では理解が出来ないんだ… 教えてくれ…!」
彼は懇願するような目で青年を見つめる。
しかし、青年が発した言葉は絶望的だった。
「さぁ?」
青年は柊斗を見ることはせず、また道路をじっと見つめた。
柊斗が固まっていると、後ろから突然大きな声が聞こえた。
「ごめんごめん! ちょっと遅くなっちゃって!」
後ろを彼が振り返ると派手な服装をした女性がいた。
背丈は青年より低く、高校生ぐらいの顔付きだったが、この寒いのに短いスカートをはいて、黄色と黒の縞々な長袖を着ている。
「ちょっと? ハハハ。 君にとっては1時間がちょっとなんだね」
青年は苦笑いを浮かべながら女性に近づくと額を指で弾いた。
「ど、努力はしたのよ! でも、何着て行こうか悩んでいたら… そ、それよりそこの男の人誰よ! 私がいない間に浮気なんてしてたら許さないんだから!」
女性に柊斗は睨まれ、自分で自分のことを指差した後に違う違うといった風に手と頭を振る。迷った挙句その服かよなどと間違えても言ったらおそらく殴られるだけでは済まないだろう。
「変な言いがかりは止してくれよ。 ショッピング行くんだろ? さっさと行こう」
青年は呆れた顔をしながら少女の肩を右腕で抱いて連れて行こうとする。
咄嗟に女性は柊斗の方を向いて、舌をこれでもかというぐらいに出した。今時あそこまで強調された嫌悪感を剥き出しにする女性も見ることが無いだろう。ある意味爽快である。
呆然とし、口を馬鹿みたいに開けて、柊斗は頭の中を整理しようと一人で悶々としながらスーパーマーケットへと向かった。

彼は特に何も考えること無く久々に野菜や肉などを購入し、家へ足取り速く帰った。いつも以上に寒さがきつく、リビングで寝ている少女が風をひいてないかが心配で彼の足取りを速める。
彼女のことを不審に思っていないと言えば嘘になる。
彼自身、昨日今日で起きていることがもはや彼だけで対処できることではないことは何となくわかってはいる。
夢の中に出てきた夢葦という少女。
朝彼に違和感なく接した白い少女。
何かを知っていると思われる青年。
全ての人物が、何処かの点で繋がっているのかもしれないし、そうではないのかもしれない。それすらも彼には理解できないことであるのだが、どれも彼のことを守ってくれるものではない、と。それだけは理解できてしまい、そのことを忘れようとする自分がいた。その自分は彼女のことを不審ではないと思わせているようで、意志の中に二つの想いがあるのが彼自身でもわかった。
そんな考えてもどうしようもないことを考えながら、家の目の前に着いて彼はコートのポケットから家の鍵を取り出し、鍵穴に差しこんで回した。
たが、回したときに手にくる何かに引っかかった感触がない。
――― 鍵が…開いてるッ!?
彼の家の合鍵を持っている人物は彼の知っている限り大家しか存在しない。
そこまで考えて昨日の夢のことを思い出した
――― 窓から鍵を開けて貴方が目的で入ってきたの。
昨日の夢が本当のことであったとしたらこんなことができる人物はあの少女しかいない―――。
咄嗟に彼はドアノブを思いっきり回し、壊れんばかりに勢いよく開ける。そのまま靴を脱ぐのも忘れて凄まじい地響きを鳴らしながらリビングへと転がりこんだ。
「な、何があっ――― あれ?」
少女の安否が心配で大きな声で叫ぼうとして彼は呆然とする。
目の前では隣りの女子大生が少女に食事を振舞っている温かい光景が広がっていた。そして2人は何か特別なものを見るような目でじっと彼のことを見つめている。
「ど、どうしました?」
大学生がこちらを見て心配そうに声をかけたのだが、その所為で対して彼の焦りがどっと消え、気付いたら止まっていた肺がと気管が勢いよく活動した。息が上がったのに呼吸を忘れていたため、急に胸が苦しくなる。今水を飲めば全てが気管に入りそうだった。
「ひっ、ぐ、ぐぇ、がっ」
声を出そうとして出た蛙の様な呻き声の所為で女子大生が慌てて水をコップに注いで彼の傍に駆け寄る。そして「お、落ち着いて飲んでください!」などと言いながら断ろうとする彼の様子を見ずに一気に水を流し込んだものだから、彼の肺は凄まじい勢いで水分を得て、活動を停止した。彼はそのまま白目を向いて、入るべき場所に入らなかった水を口から流す。
そこから数時間の記憶は彼には一切無かった。

またまた続きです

「うわぁ!」
彼は自分の大声で目が覚めた。
額に汗を浮かべながら布団から勢いよく上体を起こす。その勢いで掛かっていた掛け布団が力もなくフローリングに倒れている。
全身汗で濡れ、昨日着ていたワイシャツがびしょ濡れだった。
――― 酷い夢を見た…
寝起きの気分は昨日にも増して最悪だった。未だに夢で見た映像が脳裏から離れること無くべったりとこびり付いていて、実際に昨日あったことのようにしつこく頭の中を駆け巡る。
一度深呼吸にも似た溜息をついてから徐に立ち上がると、ふら付く足元に気をつけながらゆっくりとリビングに歩いていく。二日酔いのように後頭部に激痛が走っていて、立っていることが辛く感じられる。
リビングの壁に掛けてある時計に目をやると、12時を回っていた。12時間も寝ていたことに改めて気付き、彼は溜息をもう一度ついた。
昨日、会社からもう一つ提出しなければならない書類を頼まれていて、家にいる間も休息をとれそうになく、それを思い出すと余計に頭が痛くなった。
スーツとネクタイをハンガーにかけ、汗でベタベタになった肌を洗い流そうと風呂場にのそのそ歩いていき、寝起きのぱっとしない表情の自分の顔を洗面台の鏡で確認する。いつもにも増して目の下の隈が酷くなっていて、とても外に出られるような顔ではないというのを改めて自覚した。
何気なく風呂に入り、ジーパンとティーシャツ姿で風呂場から出る。ふとその姿を鏡で見るととても24歳には見えず、一見ただのおっさんである。そんな姿に加えて首にバスタオルを掛けている物だがら余計におっさんにしか見えなく、彼自身でも笑ってしまう程だった。
その姿でリビングの椅子に腰をおろしてノートパソコンを開き、電源を入れる。横に置いてあった煙草に手を掛けて沢山詰まった中の一本を取り出して口に咥える。しかし、ライターが近くにないことに気付き、寝室の通勤カバンを取りに行った。
寝室の部屋の隅に投げ出されたそれを彼は拾って、何気なくベットに視線を向けると、そこには見たことのない少女が寝ていた。
彼はそのままバックを持ってリビングに戻り、椅子に腰を掛ける。カバンからライターを取り出し、煙草ケースの上に置いておいた煙草を手に取りライターで火をつける。そして立ち上がったノートパソコンにUSBメモリを差して資料の続きを開く。そして黙々とキーボードと格闘を始めた。
一時間近く資料を制作して一段階ついたのでコーヒーでも入れようと立ち上がってコーヒーカップにインスタントコーヒーの粉を入れて、お湯を注いだ。コーヒーの香りを嗅いでやっと意識がはっきりしてくる。注いだコーヒーを飲みながら、食パンを生で食べる。テレビの電源をつけて昼間のバラエティ番組の騒音を聞きながらまた仕事を再開した。
食パンを食べ終えて、ちょうどコーヒーも飲み終えたのでコーヒーだけもう一杯飲もうと立ち上がろうとした時、コーヒーカップは誰かに持ち上げられた。
「私が注ぎますよ」
「ん? そうか。 じゃあ頼む」
彼は一言そう呟くともう一度キーボードと格闘を始めた。制作しなければならない書類は地味に多く、12時過ぎからやるとすると一日を使ってしまいそうだったので急いで手を動かした。
注がれたインスタントコーヒーを飲み、残っている仕事を片付けようと必死で画面を見続ける。似たような文字が連なっている様子を見て、目が乾き、痛くなってくる。休憩も取らず一心に指を動かすが、二時間ほどそうしていると、体も悲鳴を上げてくる。腰が痛くなり目が酷く疲れ肩がいつも以上に凝った。
「そんなに働いていて体は大丈夫なんですか?」
「まぁ… 仕事だからしょうがないだろう」
悲鳴を上げる体の部位を叱咤するように指を動かしながら彼は呟いた。
「仕事だとしょうがないんですか…」
軽く声を受け流し仕事に集中する。
しかし、パッと手を止めて隣りに視線を向ける。
そこには白いワンピースを着て変わった髪飾りをした少女が座って、彼のノートパソコンの画面を真剣に見つめている。外見はとても幼く、真剣に画面を見つめている様子はパソコンを初めてみているような、そんな眼差しだった。
「というか」
彼はまた呟く。
「君は、誰なんだ」
少女は彼を不思議そうに見つめてから満面の笑みで返事をした。
「誰なんでしょう」
彼は咄嗟に昨日見た夢のことを思い出した。
見ず知らずの少女が窓を開けて寝室に入り、恐怖で震える自分に名前を尋ね、接吻をすると彼の意識が闇に沈んでいく、そんな夢だった。
夢の中の夢葦と名乗った少女の顔と目の前の少女の顔を照らし合わせたが、顔立ちも幼く、とても夢の中の少女には見えない。
そしてまず彼は、少女がいることに違和感もなく自然に会話していたことにふと気付いた。今の状況は昨日の夢と殆ど変らない状況のはずなのに、自然と彼女の存在を認め、会話をしながら今日一日を過ごそうとしていた。そのことの恐ろしさにようやく気付き、椅子から転げ落ちる。
「なんで君はここにいるんだ!? また夢か!? 夢なのか!?」
「私に聞かれても…」
柊斗は夢と同じように体の四肢を使い、壁に頭を打つまで後退する。
「き、君に聞かなきゃ誰に聞くんだ!」
大きな叫び声に少女は驚いて顔を歪ませる。ここまでは夢と一緒だったが、歪んだ顔が泣きそうな表情に変わったのは夢と同じではなかった。
少女は目に涙を浮かべてわかりません、と何度も呟くことしかしない。夢の少女のように大胆な行動に出ることもせず、床に縮こまって泣き出す姿を目の前にして、柊斗は怒鳴ることもできず、驚きを口に出すのも悪い気がして黙りこくってしまう。
「その… なんだ… すまない… 大きな声で怒鳴りすぎた…」
落ち度はないものの、自分の行いが悪かったと勝手に判断して謝る。社会人になってからの癖で、なにかと柊斗は謝るようになっていた。
少女は柊斗の声を聞いて涙を手で拭い、赤く腫れた目で笑みを作って見せた。

また続きです。


彼が家に帰った時にはもう0時を過ぎていた。辺りは暗くなり、人の声は一切聞こえなくなり、何処かの家の犬の遠吠えが家の中からでもはっきり聞き取れた。
彼は部屋の電気もつけずに暗闇の中にある白い物に倒れこんだ。
一段と彼の身体は疲れきっていて、夕食を買ってくる気にもなれなかったため、現在家にあるのは朝食用に買ってある食パンのみだった。
今日提出の書類を完成させることが出来ず課長に怒鳴られ、書類を作成するために残業をしていたので帰りが遅くなったという一見自業自得な理由だが、本当だったら今日は出勤しなくていい日だったので、彼の心の中にはいつもと違い不満が蔓延していた。
――― 誰のために行ってやったと思ってんだ…
そう心の中で毒づきながら彼は着替えもせず、食事もとらず、ゆっくりと闇に意識を沈めようとしていた。

しかし、その眠気は次の瞬間一気に緊張へと変わった。
突然、リビングの方で窓が開く音が聞こえたのだ。
リビングの窓は向かいのビルの壁と隣り合っていたはずである。もうひとつ窓があるが、その窓は小さく、窓の下に足場は無いので鍵をかけた覚えはないが、当然のように開けた覚えもなかった。
気を張り巡らせていると、リビングからヒタッと裸足で誰かが歩いているような音が聞こえた。その音は確実に音を大きくしながらこちらに迫ってきている。
恐怖で硬直する体を無理に動かして寝室への入り口に目を向けると、ドアが開いていた。苛立ちを押さえずに布団に倒れこんだことを今更になって後悔する。
寒いはずなのに額や胸元からは変な汗が流れて、布団へ染み込んでいく。背筋は凍るような寒気を感じ、全身が震えているのが彼自身でもわかった。
床を歩く音はどんどん大きくなり、寝室に一番近いところで鳴ったと思われる足音を最後に音は消えた。

神経を張り巡らせて出入り口を彼は見つめていた。
音がやんでから数十分。しかし彼にとってはそれ以上に長く感じられた。
そんな緊張がピークに達した時、自分の耳元で突然物音がした。いや、正確には声というべきものであったが、それを声としたくない気持ちが全てを覆い尽くしていた。
「こんばんは。 お元気?」
その物音が聞こえた時一瞬混乱しかけたものの、結局頭の中が真っ白になって反射的に布団からとび起きて体の四肢を使って必死に逃げようと後退した。しかし、その後退は意味を成さず、壁に頭が当たって体から力がフッと抜けた。
「怯えなくてもいいじゃない。 失礼な人ね」
彼の視線の先には黒いワンピースを着た少女が立っていた。部屋の中だというのに黒い傘を差していて、長い髪を耳の上で二つに縛っていた。
しかし、彼にとっては外見などどうでもいいことで、何処から、どうやって、何が目的で彼女が目の前にいるのか、彼が今欲しい情報はそれだけだったが、まず彼の口から出た言葉はそのどれでもなかった。
「だ、だだだ、誰だ、お前!?」
「礼儀も知らないのね。 人に名前を聞くときにはまず自分から名乗るのよ。 わかったかしら?」
少女は自分が不法侵入したことも気付かないかのように軽い調子で柊斗に言う。
しかし、正反対に彼は目を見開いて汗を大量に流しながら大声で叫ぶ。
「お、お前は誰だって言ってんだ!」
彼の声が煩かったのか、少女は若干顔を歪めるが直ぐに表情を戻した。
「本当に下品な人ね。 私は貴方の名前が知りたいの。 早く答えて下さる? そうすれば私が誰か答えてあげる」
柊斗に比べて、いたって冷静な様子で少女はそう言った後黙って彼を見つめていた。視線はとても冷たく、これ以上少女にさからうと何をされるかわからない、という恐怖から、柊斗は怯えながら自分の名前を口にする。
「や、薬師… 柊斗…」
「薬師柊斗、ね。 最初からそう答えればいいのよ」
少女はそう呟くとゆっくりと彼に近づいた。咄嗟に彼は大声で怒鳴る。
「く、来るんじゃない! まずお前が誰か答えろ! その後、何処から、どうやって、何が目的で来たのか順を追って答えろ! 理由によっては警察に通報する!」
その大きな声に少女はまた顔を歪めるが冷たい表情で近寄りながら彼女は言った。
「私は夢葦(むい)。 窓から鍵を開けて貴方が目的で入ってきたの」
少女はゆっくりと近づいて、彼の前に来ると彼と顔の位置が合うように体勢を低くする。恐怖で混乱し、顔を彼はよく見ていなかったが、近くで見ると彼女はかなり美人だった。
「あなた、大分疲れてるみたいだけど、大丈夫?」
少女は不思議そうな顔をするが、すぐさま柊斗は言い返す。
「誰の所為だと思ってるんだ!」
もう一度彼は叫ぶと、さすがに慣れたのか、夢葦は顔を歪ませることは無かった。寧ろ冷たかった表情に笑みが現れる。
「会社の所為、じゃないかしら」
途端に、柊斗は体の震えを止めて、唖然とした表情で彼女の顔を見つめた。
「なんだって?」
思わず引きつった声をあげて聞き返した柊斗に彼女は笑顔で答える。
「会社の所為、でしょ? 貴方の夢が悲鳴を上げてるわ。 最近私を見てくれない、って」
笑みを浮かべながら少女はそんなことを言い、柊斗の顎にそっと手を添えて顔を近づけた。彼は唖然としていた所為で今から何をされるのかを理解するのに時間がかかり、横に逃げるタイミングを逃した。逃げようと必死にもがこうとするが反応が遅く、彼の唇に少女の唇が合わさった。
体全身から力が抜けて、急に彼を睡魔が襲う。もがこうとする力も体には入らず、意識が現実から遠退いて行くのが彼自身でも自覚できる程、強い睡魔だった。
『おやすみなさい… ゆっくりと…』
その声を最後に、彼の意識はようやく闇に沈んだ。

前回の続き

   ~ 第一説 ~




土曜日の朝五時。彼は不快な音で目が覚めた。
甲高い電子音が携帯電話からけたたましく鳴り響く。耳を劈く音に眉間に皺を寄せ、動きたがらない脳を無理に回転させて布団の中から腕を出すが、恐ろしく冷たい冬の冷気に皮膚が凍りつくのを恐れて痛みともわからない刺激を脳に与え、反射的に腕を布団の中に戻す。
そもそもこんな朝っぱらから電話してくる奴なんてろくな奴ではないとして無視してしまうのも良かったが、ふと嫌な予感が回転しきれてない脳から浮かんできて、慌てて寒さに耐えながら腕を伸ばして携帯電話を掴み、布団の中に引きずり込む。重い瞼を無理に抉じ開けて、開いた携帯電話の画面を見る。
数秒間、彼の思考は固まった。画面にははっきりと大きな字で“課長”と表示されている。
布団の中が急に冷えたのがわかった。
恐ろしく幸せだった布団が地獄と化した今、彼は逃げることも許されず、携帯電話の通話ボタンをゆっくりと押した。
「もしもし。 はい。 今日は休勤ですが… はい。 …わかりました。 では九時ぐらいに――あ、はい。  はい。 了解しました」
死んだ魚の様な眼をしながら彼は通話を切る。
「…クソッ」
寝癖でボサボサの頭を力いっぱい描き回し、余計ボサボサにする。今すぐ夢の世界へ帰りたいという想いが行き場所もなく彼の頭でウロウロしていた。そんな想いを振り飛ばすために頭を強く振り、布団から立ち上がる。
しかし、昨日から何となくこうなることは分かっていた。年末に忙しいのは毎年のことだ。町ではクリスマスだの年末セールだのではしゃいでいる人々がいる中で、彼にクリスマスや年末セールが訪れることはまず無かった。
成人して早四年。
満足な年末を迎えたことなど一度もない彼は、毎年このくらいの時期にけたたましい電子音を聞いていたのだ。今日が出勤することなど容易に予想できた。
しかし、ほんの一部の希望にかけて目覚まし時計のベルはかけずに寝たのだが、今年もその希望が現実になることは無かった。

彼は薬師 柊斗(やくし しゅうと)といった。
田舎に生まれて、高校卒業後、短期大学に入り、就職活動の末、普通の商社に入り、今その会社の課長から休日出勤の命を下された。幼いころから、目つきが悪く、「お前は絶対借金の取り立て屋になる」等と友人にからかわれたりしたが、これといって特殊な職業につくこともなく、どうせならそんな仕事でもいいから特殊な職業に就けばよかった等とふざけた後悔をしたまま、平凡な暮らしを送っている。
着ていた寝巻を脱ぎ捨てて、急いでスーツに着替えるとカーテンを力いっぱい開ける。日光を浴びて気を晴らそうとしたのだが、目の前に広がっていた光景は――向かいのビルの部屋の窓である。朝から絶望に打ち拉がれて、テンションは最低だった。最高潮どころか、もはや潮が引いて海底が表に出てしまっている。今なら打ち上げられた鯨といい酒が飲める。そう思えるほどだった。
テレビのリモコンを力なく持ち上げ、電源ボタンを押す。画面に映るのは見なれた顔だけ美人な女性キャスター。本当は今日見なくて良かったはずの顔を今見ている。そう思うと余計に落胆した。
薬缶に水を入れて火にかけ、食パンを電子レンジに入れて焼き始める。数分何もせずにじっとテレビを見つめていた。テレビの内容は芸能人の誰々が恋愛発覚だとか、政府に不正が発覚だとか、色々なことが発覚しているようだったが彼には別にどうでもいいようなニュースばかりだった。政治のことはどうでもいいことなどではないが、少なくとも今の彼の状況を救ってくれるような政策はしてくれなさそうなので、彼にとっては殆どどうでもいいことだった。
焼けた食パンとインスタントコーヒーをテーブルに並べ、もくもくと食事をする。食べた心地は全くしない。恐ろしく機械的に食事をしていることに途中で気付いたが、それすらも、どうでもいいことだった。
―― 俺が死んでもきっと誰も気付かないんだろうな。
ふと、彼はそんなことを考え、笑みが零れる。
『今日未明、東京都石崎市湊町のマンションにて中年男性の遺体が見つかりました。 身元は――』
ニュースのキャスターの声が耳に入り、コーヒーを啜りながら目を向ける。自分もああなるのだろうか、と考えまた笑みが零れた。
―― それもいいかもな。
そんなふざけたことを考えて、直ぐに止める。
時計を見ると時計の針は七時半を指している。
徐に立ち上がると掛けてあったコートを羽織り、月曜使うはずだった会社の資料を詰め込んだ鞄を持ち上げて、ゆっくりと家を出た。

冷たい風が頬を叩く。少しの間それに耐え、エレベーターに乗り、マンションの一階まで下りるといつも出勤時に通る道をひたすら歩く。ふと周りに目を配ると、いつもと変わらないかのように労働者が歩いていた。出勤は自分だけではない。そう思い、無理に気を晴らしてまたひたすら歩く。
中には学生も混じっていた。平日出勤の時によく見かける制服を着ている。近くの高校の生徒のようだ。偶然見かけたその男子高校生は、こちらに気付くと軽くこんにちは、と挨拶した。近頃の若い奴は等とよく言うが、たまにこういった挨拶をする高校生を見かけると少し、捨てたものではないな、などと思う時が彼にはあった。彼が高校生の時、近所の人に挨拶をした覚えはないが、だからこそ少し次の世代に期待は出来るような気はした。
こんにちは、と軽く挨拶をし、彼は何気なく男子高校生の顔を見た。マフラーで顔の半分は隠れているが、顔立ちは整っており、長い髪を後ろで纏めて縛っていて、一見首から上だけ見れば女性に見える。しかし、その高校生はズボンを穿いていて、首から下は女性には見えなかった。
思わず一度足を止めてその少年の顔を見てしまったため、向こうも足を止めて、不思議そうな顔で向こうもこちらを見る。
「あの… 何か…?」
そう問われて慌てて彼は言い訳をした。
「いや、君は偉いな、と思っただけだ。 すまなかった。 気にしないでくれ」
誉めてるんだか謝っているんだかわからないセリフを残して、その場を急いで立ち去ろうと足早に歩き始める。やはり、人の顔をまじまじと見てはいけない、そう改めて実感し、急いで去ろうとしたが、自然と歩く速度が落ちた。
今、少年がどんな反応をしているのかが気になってしかたなくなってしまったのだ。人と会社以外で触れ合うのは彼にとってかなり久しぶりだった。それ故に、自分の人に与えた影響がどうだったのかが気になった。
恐る恐る振り返ると――そこに少年の姿は無かった。
少し彼は安心し、またいつもの道をただひたすら歩いた。
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